直径106cmのエデン


 雨はざあざあと分かりやすい音を立てて降り続いている。
 どしゃぶりの雨の中、椿はグラウンドを見ていた。
 芝に跳ねる水の粒がはっきりと見えるほどの雨だ。
 無性に体が動かしたくなって出てきたものの、さすがに練習したらまずいだろう。こんな夜に雨の中で練習して、風邪でも引いたら何にもならない。まして、シーズン中だ。
 椿はそれで困ってしまう。
 ジーノを除く中盤と流れでついてきた一部守備陣の懇談をかねてという食事会が終わって店を出た時にはすでに雨は降っていた。以前よりは接点がでたとはいえ、ほとんど聞かせてもらえる機会のなかったベテラン陣の話はなんでもないような流れでも椿にとってはすべてが刺激的で、終わる頃にはいてもたってもいられなくなっていた。
 そして。
 会がお開きになると、もう一軒はしごするというベテラン組を見送った後ぞろぞろと寮に帰る若手の群れから外れて、椿は走ってここまできた。
 とにかく体が動かしたかったし、ボールに触れたかった。
 誰もいない練習グラウンド。
 食事会をした店は地元だったけれど、それでも走ってグラウンドにくるまでには少し距離がある。もしかしたら途中で雨も止んでいるかもなんて期待したのだけれど、雨脚は少しも弱まっていなかった。
 椿は無言で肩を落とした。
 それからきゅっと顔を上げる。
 どうせ、ここまでのランニングで洋服どころか下着までぐしょぬれだったので、今さら少しボールに触ったところで変わらないだろうと思い直したからだ。
 体が動く。
 誰もいないグラウンドには、椿にしか見えない相手が並んでいる。フェイントをかけて相手を躱して、シュート。空のゴールに向かって蹴ったボールは残念ながらポストに嫌われる。
「あーッ」
 ほんの少しだけと思ったのは、その時点で完全に頭から抜けてしまう。
 雨はもう、気にならなかった。

 

「おい」
 どのくらい時間が経っただろう。
 突然、誰かが声をかけた。
 ずぶぬれのままの椿が振り返ると、そこには傘を差した村越がたっていた。
「あ、あ、あのさっきはゴチソウサマでした」
 椿は予想外の人物の登場に慌てて、それでもぺこりと頭を下げた。
 村越はそれを、そんなことは何でもないとでも言うように手をかるく振るだけで答える。
「そのくらいにしとけ」
 村越はつかつかと椿の前まで来ると、自分の差しているカサを差し出した。
 大粒の雨は容赦なく村越を打ち、着ている服をみるみる濃い色に染め上げていく。
「コシさんが濡れちゃいます! お、おれもうどうぜ濡れてますから」
 椿は慌てて言いながら、両方の手を胸の前でばたばたと振ってみせる。慌てた時によくでる彼の仕草のひとつだ。一人でボールを蹴っていた時とは打って変わって、椿は萎縮しきっていた。自分のせいで大のつく先輩がずぶ濡れになったのでは申し訳なくて顔もあげられない。まして、そんな傘なんて使えるはずがない。
「それもそうだな」
 椿の気持ちを汲んでか、村越がそう言う。
 と、内心、安心した椿の思惑とは違い、そう言って傘を閉じたと思うとご丁寧にくるくると傘を巻いて、留め金まで止めてしまう。
「あの、傘、何で」
「さぁな」
 村越は椿の肩口のグラウンドを見つめた。
 グラウンドは夜の冷たい雨を吸い込んだ様に暗く沈んでいる。
 静かにグラウンドを見つめる村越に、椿は言葉を繋げなくて、困ってしまう。いつもの感じからいって店を出てから数時間は経っているだろうここに突然、村越が現れたことも、自分に差していた傘を差し出したかと思うと突然閉じてしまって一緒にぬれねずみになっていることも、目の前で起きたことが信じられなくて、何から口にしていいのか分からない。
「何でか、お前がここにいる気がした」
 椿の疑問を先回りしてか村越がそうつぶやいた。
 肩口のグラウンドを見たままの表情からは何も探りとれない。
 何だかジャイアントキリング級にすごい殺し文句を聞いた気がして椿はまた何だか無意味に走り出したいような気持ちになった。もちろんそんなことはしないが。
「…」
「帰るぞ」
 目元だけで椿を捕らえて、村越はそう言った。
「ハイ!」
 椿はそう返事をしながら、答えを聞かずに歩き出した村越の後を小走りするように追った。

 

コッシーに傘が似合わなすぎるのと、バッキーが書いてみたら攻めてくれなすぎるのでどうしようかと思った。